とある孤独な研究者の話

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  • 2684字

「ハーキマー君、来週の試験だけどさー…勉強教えてくんない?」
「オズ! 演劇なんて馬鹿な事は止めて勉強しろって言ってるだろ!」
「良いよなオズは。家金持ちだし頭良いし」
 まあ世の中面白くないものである。金が物を言い、金を稼ぐ為の頭の良さが全てを決める。
「…馬鹿馬鹿しいのはどっちだ」
 この国でも、真っ当な職業の中で一番の高給取りは医者である。
「? ハーキマー君何か言った?」
「いや、独り言」
 果たしてこうやって、自分に教えを請うて医師を目指す者の中に、本当に人命を救いたくて邁進している者は居るのだろうか。
「…そろそろ卒業公演の演目考えないとなー」
「ハーキマー君余裕だねー。あたし部活とかそんな暇無い無い」
「やってみれば、意外と出来るもんだよ」
「そうかなー?」
 テーブルの向かいに座っていた女生徒が色目を使っている事には気付いているが、オズワルドは気の無い振りをして、自習室の窓の外を見た。
 そういう自分ですら、本心は少し違うのだった。
「出来るよ」
 次の公演が最後の舞台になるだろうと思っていた。
 それでも、自分を多少偽りながらも、例え偽善と言われようとも、両親の期待に応え人の役に立つ仕事に就く事は、自分の人生を選ぶにあたって正しい道に違いない。

 あの頃はまだ、そう信じていた。若かったのだ。
 十年後、オズワルドは大学病院に勤めていた。しかし、それは昔夢見ていたような事ではなかった。
 オズワルドは現場で働きたかった。どんなに小さな町医者でも良い。苛酷な労働環境の救急救命隊員でも良かった。せめて、人を直接この手で救う仕事がしたかった。自分の夢を諦めた代償に、誰かの夢を延命させる仕事を。
 だが、大学在学中に少しの気の迷いで彼はいつの間にか医師ではなく研究者の道を歩いていた。勿論、医学研究も人命救助に繋がっている。しかし、自分の部屋で顕微鏡を覗いていると、時々、ああ、間違えたな、と思うのであった。最初にそう思った時に進路を元に戻す事は出来なかっただろうか。きっと十年前の自分なら出来ていた。大人になった自分には出来なかった。妥協してしまったのだ。
 このまま自分は定年まで、無機質な明かりに照らされた幾何学的な部屋の中で、目に見えない[エネミー]と戦い続けるのか、と思うとあまり気分は良くなかった。
「…さて」
 一人でノートに何やら書き付けていた手を止め、伸びをして立ち上がる。この研究室の、慰みに会いに行くか。
 自分の研究室を出て、白い壁に挟まれた廊下を進む。途中で別の研究室の同僚と擦れ違った。
「やあ、ドクター・ハーキマー。休憩かい?」
「まあね」
 適当にやり過ごして足早に立ち去る。エレベーターのボタンを押し、到着した箱に乗って階下へ…病院の地下へ。
 地下階は複数ある。上の方は主に倉庫やら、霊安室やら、仮眠室やら、普通の病院スタッフも出入りする区画だ。
 オズワルドが目指すは更に下の階だった。エレベーターで降りられる一番下の階まで行くと、再び廊下を進み、ある扉の前へ。
 人気の無い場所にある、防火扉の様にも見えるそれには鍵が掛かっていた。問題は無い。オズワルドの研究室の一部であるから、彼はポケットから鍵を取り出すと扉を開けた。
 真っ暗になるが、電気を付ける前に中から扉をしっかりと施錠する。すると明かりは自動的に点いた。入ってすぐの部屋…廊下の続きとも言えるが、そこにはノートが広げられた机と椅子が一つずつあるだけで、オズワルドの慰みは、今入って来た扉と反対側にある扉の向こうに居た。それにも鍵が掛かっているが、先程とは違う鍵を躊躇い無く差し込んで中に入る。
「やあ」
 中は擬似太陽光に照らされていて明るかった。部屋の壁一面に動物のケージが設置され、昼行性の生き物はオズワルドに気付いて忙しく動き出し、夜行性のものは拙い夢を小さな脳の中で繰り広げていた。
 オズワルドは被験を終えて残り少ない余生を送っているネズミ達を突きながら(時間が経ってから何か起こるかもしれないでので直ぐには処分しないのだ)、部屋の奥へと進む。
 一番奥には、壁一面の大きな檻があった。その中には、天井近くに取り付けられた梁にぶら下がって、何か巨大な黒いものが居た。
 オズワルドは檻の柵の一本を叩いた。鈍い音が響き、目覚めた黒いものが畳んでいた翼を広げた。
 それは巨大な蝙蝠だった。突然変異で人間よりも大きく成長してしまい、この研究室で調べられている被験体。見た目は普通の蝙蝠を大きくしただけで顔も醜く不気味だが、随分人に慣れていて、性格はとても穏やかだった。特に可愛がってくれるオズワルドの姿を認めると、ギィ、と嬉しそうに鳴いた。部屋に設置されている冷蔵庫から肉を取り出して差し出すと、オズワルドの手から少しずつ行儀良く食べた。
 オズワルドにとってはこの部屋で動物の世話をする事が唯一の道楽になっていた。いずれ実験台にされて死にゆく動物達に愛情を注いでも何にもならないが、他の何に…或いは誰に…注げば良いのか解らなかった。
 口煩い両親は大学を卒業して間も無く事故で呆気なく逝ってしまった。兄弟は居ない。親族とも疎遠。恋人等考えた事も無かった。オズワルドは最早自由だった…想像以上に深い孤独がおまけで付いてきたが、とにかく自由だった。
 この自由が十年前に手に入っていたら…と毎回そこまで思い浮かんだ所で、両親の顔が思い浮かび不謹慎であると考えるのをやめにする。
 動物達に飼料をやり、ひとしきり彼等の動作を眺めて癒されたところで、オズワルドは自分の部屋に戻る事にした。
 実験室の隣の居室で、学会から戻った教授[ボス]が一人でコーヒーを飲んでいた。挨拶をしようと一先ず立ち寄る。
「今お帰りですか?」
「うむ。君は飼育室に?」
「ええ」
「やっぱり。獣臭いよ、着替えて来ると良い。君も飲むかい?」
「是非」
 教授がコーヒーを入れてくれると言うので、オズワルドはロッカーで隠れた部屋の隅で白衣とシャツを取り替える。
「学会の方は如何でしたか?」
 着替えて教授の側に戻り、尋ねる。教授はオズワルドがどのくらい砂糖を入れるのか、短くはない付き合いの中で把握していたから、既に入れてくれたのだろう、オズワルドに背を向けてカップを掻き混ぜていた。
「目新しい事は無かったね。はい」
「ありがとうございます」
 オズワルドは差し出されたカップを受け取り、丁度喉も渇いていたので、教授の顔を見る間も無く、その中身を経口摂取した。
「だからそろそろ新しい事をやろうと思うんだよ、ハーキマー君。君とね」
 その教授の言葉よりも後の記憶は、無い。

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