第21章:一縷の望み

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  • 3379字

「ただいま」
 エドガーは洋装店の扉を開け、そう言った。
「お帰りなさい」
 微笑みを浮かべたフェリックスの父親が出迎えてくれた。
 幼い頃は家を持たず、アンボワーズでは一人暮らしの彼にとっては、こうした些細な挨拶でさえも新鮮である。
「トレンズはどうだった?」
「良い所でしたよ。北の方にずっと居たんですが、そこは思ったより拓けてて」
 少し旅の話をにこやかに聴いた後、父親は急に真剣な顔になって言った。
「君が居ない間に何度かフィッツジェラルドさんから電話があった。疲れてるだろうけど、なるべく早く行って説明した方が良い」
 全くその通りだ。エドガーは貸し馬車でエリオットの自宅へ向かう。
「エドガー君。待ってたよ」
 家にはエリオットだけが居た。平日なのでルークリシャは学校だ。
「ヴィクトーはアンボワーズに行くと言っていたんだが、トレンズに向かったんだね?」
 エリオットは椅子を勧め、座ると同時に本題に入る。
「ええ。国外追放後の移民先としてトレンズを希望したらしいです。最初は本当に国外をフラフラするつもりだったみたいですが…」
「うーむ…トレンズか……」
 エリオットは頭を抱える。
「よりによってトレンズか…」
「…何か問題があるんですか?」
 エリオットは首を縦に振る。
「いや、気持ちの問題だがな、トレンズにルークリシャを連れて行くのはなあ…」
「あ、連れて行かない方が良いと思います」
 エドガーはヴィクトーの思惑を説明する。
「ルークリシャちゃんにはウィリアムズで安全に過ごしてもらっている方が…」
「出来ればそうしたい所なんだが、実はそうもいかないんだ」
 今度はエリオットが説明する番だ。
「ルークリシャちゃんに『歌』を!?」
「そうなんだ。なるべく早くあの苦しみから解放してやりたいが…」
 エリオットは溜息を吐いた。今すぐにでもトレンズに行って兄を捕まえるのでは駄目なのかと、エドガーは不思議に思う。
「…エドガー君、トレンズにはウィリアムズ人は居たかい?」
「それは…」
 突然話題が変わり、どぎまぎしながら思い出す。
「…そういえば、あんまり見かけなかったような…」
 ウィリアムズ人は独特の浅黒い肌の色、そして黒髪黒眼で、どの国に居ても大抵はすぐに判る。トレンズも赤道に近いので色黒の者は多かったが、トレンズの原住民はどちらかというと肌は褐色で、髪の色も茶色がかっているので見分けはつく。
「トレンズとウィリアムズはつい三十年程前に戦争をしていた」
 エリオットはコーヒーを入れる為に立ち上がった。エドガーも言葉に甘えて一杯頂戴する事にする。
「冷戦状態も徐々に緩和されてるとはいえ、友好な関係を築いているとは言い難い。寧ろトレンズの国民感情としては未だにウィリアムズを恨んでいるだろう。此方が勝ったんだ」
 エリオットは再び席に着く。
「ウィリアムズ人と見て取れば石を投げられるかもしれない…。何より、俺自身が彼等に会わせる顔が無い」
 若き日に戦争の最前線に立たされた記憶は今も鮮明に残っている。相手方の船の位置を確認し、大砲の照準を定め、撃つ。船から煙や炎が上がり、船員達が海へと飛び込み沈んでいくのを丘の上から見下ろす…その繰り返しだ。時に相手の砲弾が近くへ着弾し、剣術学校時代の同級生の身体を木端微塵にした事もあった。今でも時々、夢に見て魘される光景だ。
「…どうするんですか?」
 長い沈黙が降りた。最終的にエリオットが出した結論は、
「このままヴィクトーの痕跡が薄れるのを待つ方が良いのかもしれない」
だった。

「ルークリシャちゃん」
 学校からの帰り道、ルークリシャが友人と別れて一人になった所で、エドガーは物陰から彼女を呼んだ。
「エドガーさん」
 浮かない顔の彼女が振り返る。エドガーの話に期待はしていなさそうだった。
 エドガーはルークリシャが自分と接触しても苦しんでいない事に安堵して話し出す。自分は兄を連想させるだろうから、ヴィクトーの歌い方によっては自分も避けられる可能性があったからだ。これなら新作の映画もこの前した約束通り、一緒に行けるだろう。
 共に行く筈だった兄の姿は無いけれども。
「兄さんが君に何をしたかなんだけど…」
「解ってます」
 キリキリと痛む頭に耐える様に、ルークリシャは唇を噛みながら素早く答えた。
「もう戻って来ないんでしょ?」
 エドガーは俯くしかなかった。旅行だなんて、早く自分が気付いて国外に出るのを止めていたなら。せめてトレンズではなく他の国だったならば。
「…兄さんはトレンズに行った。少なくとも一年間はこの国には戻って来ない。トレンズは…」
 今度はルークリシャが頷く。
「敵国。私も行こうとは思いません」
 エドガーは彼女にかける言葉が見つからなかった。暫くしてから、漸く切り出す。
「苦しいと思うけど聴いてね」
 ルークリシャはエドガーの紅い瞳を見上げた。
「兄さんは君を愛していたからこうしたんだよ」

『兄さんは君を愛していたからこうしたんだよ』
 ルークリシャはエドガーの言葉を反芻しながら家に帰った。徐々に頭痛が酷くなっている。
(そんな事…)
 なるべく考えまいとしたが、努力は虚しい。
(そんな事、解ってるから辛いんじゃない)
 兄が自分の事を疎ましんで魔法を掛けたのなら、こちらだって諦めがつくかもしれなかったのに。
 なんとか自分の部屋まで戻ると、壁にある物が立て掛けられていた。
 兄が大事に、それこそ自分や親しい人の命の次に大事にしていた、あの双刀の箱だった。
「ママ!」
 仕事から帰って来てキッチンで夕飯の支度をしていた母に問う。父は何処か散歩に出掛けていた。
「何あれ!?」
「金庫に入れて保管しておこうと思ったんだけど、長さが入らなくて。貴女が預かってなさい」
 事も無げに言うが、ルークリシャは既に恐怖で足が震えている。あれは兄の物だ。早く自分の目の届かない所にやらないと。
「お願い、パパの部屋に置いてちゃダメなの?」
 ローズバッドは黙って野菜を刻んでいたが、それを終えてボウルに入れると振り向いた。
「貴女はそれで良いの?」
 それは、ただあの刀の置き場所をどうするかという問いではなかった。それを解っていたルークリシャは、即答し損なう。
「…貴女がヴィクトー君の事を綺麗さっぱり諦める決心が着いたら持ってきなさい」
 それを聞いてルークリシャは自分の部屋に引っ込んだ。ヴィクトーの名前を聞いた所為で本格的に気分が悪くなったのだ。
「っ!」
 刀の箱を引っ掴み、ベッドの下の奥深く、日常生活で目の届かない所まで押し込む。そのままベッドの上で丸まっていたら、少しずつ気分は良くなってきた。
 一先ずは、何も考えないようにしよう。
 一方ローズバッドも頭を抱えていた。
(でも、これしか方法が…)
 彼女は一縷の望みに賭けていた。それはヴィクトー自身がいつか語っていた言葉。
『気が狂って魔法が解けた』
 ヴィクトーが上書き魔法を掛けられない以上、ルークリシャが苦しみから解放される方法は二つしか残されていない。一つは、ヴィクトーの思惑通り、彼への思いを断ち切る事。もう一つは、気がおかしくなるまで彼の事を考え続ける事だ。
 正直、ローズバッドも心配ではあった。気が狂ったからといって必ず魔法が解けるとも限らないし、ヴィクトーは幸いにも正気を取り戻したが、そのまま廃人の様になる可能性だってあるのだ。医師である自分が出来る限りの事をしようとは思うが、自信は無い。
 ともかく、これだけ焚きつければ今日明日中には何らかの決意を娘はするだろう。いずれにせよ、彼女が本当にヴィクトーと結ばれたいのなら、ヴィクトーの養子縁組の破棄と居住権の剥奪は避けられない問題だったのだから。
(…私もお人好しね)
 そう思いながらローズバッドは再び包丁を取る。
 ヴィクトーを助けた事で自分の人生計画はかなり狂ってしまった。結婚も何年も遅れてしまったし、今度は娘が苦しんでいる。ヴィクトーさえ居なければ、最初にエリオットに問われた時に格好付けずに「早く結婚したい」と駄々を捏ねていれば。
 そうは思うものの、彼女はヴィクトーの事を憎む事が出来ないのだった。彼の人格がそうさせるのだろうか? 自分は彼を憎み罵倒し今後一切家族に接触しないように求める権利があるのではないか?
 ローズバッドは首を振った。自分も、少し考える事を休もう。

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