第4章:僕の役に台詞は無い

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  • 4760字


 昔、両親と一緒に観た歌劇で、台詞の無い役のスターが居た。
 彼女は「女装をして伯爵夫人の部屋に入り込んでいる愛人の小姓」の役を見事に演じ切っていた。尤も、その役は劇中劇における役割で、他のシーンでは見事な歌声も披露していたのだけど。
 それは僕が数多く観てきた舞台芸術の一つにしか過ぎなかった。それでもあの時、舞台の上で輝く彼女を思い出せた事は、類稀なる幸運だったと思う。

***

 その日「僕」は死にたかった。
 勿論それは建前で、本当は生きたかった。どうしようもなく暗く苦しいこの夜を乗り越えたい。
 時々予兆も無く僕を襲う耐え難い孤独。僕はただ人肌恋しくて、夜の街へと繰り出した。

 でも、僕はまだ若かった。入って良い店と悪い店の区別もろくにつかなかった。
 この地域はかなり治安が悪いらしい。トラブルを起こし、男の店員達に暴力を振るわれ、店の外に放り出された僕を助けてくれる人は誰も居なかった。
「……ったく」
 そもそもこんな奥まった場所じゃ通行人も無い。暫くして自力で起き上がる。自分で言うのも何だが酷い有様だ。額の右上から流れる血が、店の明かりに照らされた路上に染みを作っていた。
 早く回復魔法をそら[・・]でかけられるようにしないと。傷口が塞がる前に治療しなければ痕が残る。と言っても、右側ならいつも隠しているので大して問題は無いか。
 それにしても出血が酷いし殴られた頭もガンガン痛む。何処か休める所を見付けて治療しよう。じゃないと朝には冷たくなっていそうだ。
 それでも良いじゃないか。僕の脳内で囁く悪魔は優しい。


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