第20章:忘れ難き君の名を

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 目覚めたらそこは自室だった。鳴り響く目覚ましの音を止めると、頭を掻きながら考える。
 昨日、自分は義兄に会いに行かなかったか?
「おはよう」
 一先ずダイニングに行くと、父が右腕だけでどうにかこうにか朝ご飯の支度をしていた。母は昨日の晩から当直で居ない筈だ。
「やっと起きたか。ったく、学校サボっちゃ駄目でしょ」
 シャワー浴びて来なさい、と優しく叱る父の言葉に従い、下着と着替えを持って風呂場へ。
(…何があったんだっけ…)
 義兄に会いに行き、部屋に入った事は覚えている。だが、その後の事が思い出せない。というか、覚えてはいるのだが、それを具体的に脳内で光景や状況を説明する言葉に置き換える事ができない。しようとするととてつもない恐怖の様な不安の様なものが押し寄せる。
(…魔法掛けられちゃった…)
 溜めた湯船に鼻まで浸かって息をプクプクさせながら、漸くそこまでを言語化することが出来た。急いで風呂から上がると、父にその事実を伝えようと口を開く。
 しかし、折角纏めた頭の中の言葉を、声に出す事はもっと難しかった。
「どうした? 早く食べなさい、遅刻するよ」
「うん」
 他の言葉なら問題無い。ヴィクトーの魔法の掛け方は抜かり無く、ルークリシャが彼がした事に関わる全ての事項を口封じしていた。
 勿論、ラザフォードの歌に絶対的な強制力は無い。ラザフォードの歌は恐怖心や背徳感を生み出し、相手の行動に制限をかけるものだ。その為元からの狂人や異常者には殆ど効かない事が多いが、その作用は凄まじく、普通の人間が魔力に逆らおうとすると気が狂ったり自ら死を選ぶ程だ。ルークリシャが己の自我を保ったまま抗えるものではなかったし、気が狂う覚悟で対抗するだけの気力・体力も彼女は持ち合わせていない。
 思い通りに言葉に出せないもどかしさに、ルークリシャは食事の手を止めて涙した。向かいに座って食べていたエリオットが慌てる。
「どっ、どうしたの?」
「うーん…」
 説明しようとしたがやはり出来ない。暫く双方黙っていたが、先にエリオットが口を開く。
「聞いたか聞いてないか知らないから言うけど、ヴィクトーはパパとの養子縁組を破棄して国外追放になる」
 その言葉にルークリシャは泣くのを止めて父の顔を見上げる。てっきりその事を悲しんでいるのだと思っていたエリオットは内心首を傾げつつ続けた。
「アンボワーズに行くと言っていた。ラザフォードの歌を研究して奴等に対抗する為にな。なに、今生の別れじゃ…」
「やめて!」
 突如娘が発した鋭い叫びにエリオットは驚いて口を噤んだ。
「彼の話はやめて」
 ルークリシャの顔色が悪い。手も心無しか震えている。それに、彼女はこれまでヴィクトーの事を「彼」とは呼んだ事がなかった。
「…ごめん、ご飯もう良い」
 ルークリシャはそう言って部屋に引っ込んだ。エリオットは全てを悟り、怒りを覚える。
「あいつ…!」
 エリオット自身もヴィクトーに歌われた事があるし、一族の魔法に掛かったヴィクトーを見守っていた時期もある。あれはラザフォードの歌に抵抗している時の症状そのものだ。遠隔魔法を使うには居場所が数メートルの誤差で正確に判っているか、相手の名前を知っている必要があるが、ラザフォード一族が早速ルークリシャの自宅の位置や名前を突き止めたとは考えにくい。ヴィクトーが歌ったに違いなかった。
 ルークリシャを学校に送り出してすぐに自分も出掛ける準備をする。アンボワーズ方面への追放を希望するなら、ヴィクトーは必ず北門へ来る筈だ。下手に役所へ行ってすれ違いたくはないし、彼の犯罪を然るべき機関に伝えては自分の手の届かない所で裁かれて、恐らく二度と会えなくなってしまう。
 ラザフォードの歌を解除する方法は無い…歌の内容を上書きする以外は。ラザフォードの歌の歌い方を知っているのはヴィクトーだけだ。エドガーはいつだったか、自分は仲間と認められていなかったので教えてもらえなかったと語っていたのをエリオットは思い出す。
 ヴィクトーが国外に出てしまう前になんとしてでも捕まえて、ルークリシャに掛けた魔法を上書きさせなければ。恐らくルークリシャに自分の事を諦めさせるのが目的だろうが、この方法は余りにも酷すぎるし、ルークリシャの人権等まるで無視だ。ルークリシャはこれから想いの行き場を失くしてどれだけ長い間苦しむか解らない。エリオットは一先ず、ヴィクトーを捕まえたら一発頬を張るつもりだった。

「人少なくなってるって言うけど、結構賑わってるね」
 翌日、とりあえずヴィクトーとエドガーはトレンズの街を観光していた。泊まっているホテルの宿泊代はかなり割引されているので、急いでヴィクトーの家を決める必要はない。
「どうだか。此処はウィリアムズに一番近い港の傍だし、航行技術も上がってて他の国からも前よりは気軽に来れるようになったからな。観光客も多いんじゃね?」
 ヴィクトーはレストランのガラス張りの壁越しに通りを見ながらシビアに答えた。鞄から地図を取り出して、食べ終わったテーブルに広げる。
「ま、家賃は高そうだが、大きい病院もあるし、この近辺にするよ」
 それに、あまりトレンズの奥まで行ってしまって、ウィリアムズやラザフォードの噂を聞けなくなったり、逆に此処に自分が居る事を向こうに伝えられないのなら意味が無い。
「…あんまり無茶しないでね」
「しねえよ。犯罪でもしたら即刻居住権永久剥奪の身だからな。お前が居る内に精々顔覚えてもらうだけさ」
「それもだけど、手。こんな事やってる場合なの? 病院は?」
「ウィリアムズに居たってまだ行く時期じゃねえよ。次は四日後…だったか?」
 適当にあしらうとヴィクトーは立ち上がって店を出る素振りを見せた。エドガーも温くなった茶を喉に流し込んで鞄を掴もうと顔を横に向ける。
「あれ!?」
 突然の大きな声にヴィクトーだけでなく付近の客まで振り向いた。
「何だよ」
 エドガーは眉間に皺を寄せ、目を細めて通りの向こうを睨んでいる。
「ごめん。お会計しよう」
 エドガーが焦った様子でさっさとその場を支払い、店を出る。ヴィクトーは尋ねた。
「誰を探してるんだ?」
 エドガーの視力では追えなくても、ヴィクトーには見えるかもしれない。
「…いや、多分他人の空似だと思う」
 そう言ってエドガーはヴィクトーに振り向いた。
 さっき見えたのは、黒髪の男性と共に歩く、背の高い茶髪の女性だった。
(まさかアンジェリークがこんな所にいるわけ…)
 数年前から行方知れずだという旧友の身を案じながら、エドガーは兄を急かして次の店へと歩き出した。

 そうこう言う内にエドガーがウィリアムズに帰る日が来た。
「ちゃんと住民票作って病院行ってよ!!」
 乗りこんだ船の甲板から叫ぶのはそんな内容。ヴィクトーは結局、幾つか目ぼしい物件の見学にエドガーを連れ回しただけで、借家の契約もしていなければ病院にも行っていなかった。
「解ってるって」
 それもこれも、契約を交わしたりカルテを作ってもらうにはトレンズの役所できちんと手続きをして、住民票を得てからでないといけなかったからだ。運悪くヴィクトーがその事に気付いたのと週末が重なり、エドガーを見送ってから一人で手続きをする事になった。
「住むとこ決まったら連絡してね!」
 最後まで兄の身を案ずる弟を手を振ってウィリアムズへと送り返す。船が十分離れ、エドガーの姿が視認出来なくなってから海に背を向けた。
 その時、ある人物が歩く姿が目に入った。
(あれ?)
 背の高い茶髪の女。見覚えがある気がしたのと、エドガーの先日の行動が気になって追いかけてみた。
(あれは確か…)
 ヴィクトーは微かな記憶を辿る。確か、エドガーが居たサーカスで怪力を芸にしていた女だ。名前は何だったか。
 呼び止めようとして頭を巡らせる。ふと、「楊翠玉」という、知らない文字列が思い浮かんだ。
[ヤン]翠玉[スイユー]!」
 思い浮かんだと思ったらすぐに口に出していた。ヴィクトーは自分がその文字を読めない事に気付くどころか、読みまでをも当ててしまったらしい。女が振り返る。
「あなーた…」
 アンボワーズ訛りのエスティーズ語が彼女の口から溢れる。彼女もヴィクトーの事は覚えていたらしい。
「エドのお兄さん。どーして此処に?」
 言いながら近付いて来るが、その顔は険しい。
 当たり前だろう。
「それに、どーして私の本名を知っていーるの?」
 楊翠玉…世間にはアンジェリーク・キュリーとして知られる彼女は、警戒していた。楊はシャンズ生まれの母の姓、翠玉は幼い頃シャンズで使っていた名だ。父はアンボワーズ語を話し、翠玉に「アンジェリーク」という名前も授け、父だけがその名で彼女を呼んでいた。アンボワーズに移り住んでからは、利便性からアンジェリーク、そして父の姓のキュリーを使っていた。ヴィクトーどころかエドにさえ、幼少期の名前は語った事が無い。
「…何でだろうな」
 立ち止まったヴィクトーは額に手を当てる。やっと思い出した。アンジェリーク・キュリーだ。アレックスが熱を上げていた元格闘家。
「役所で聞ーたのじゃなーくて?」
「役所?」
 ヴィクトーが本当に分からないという顔をしたのでアンジェリークは説明する。
「私、色々あってトレンズに移住しーたのでーす。その時、有名な名前じゃなーくて昔の名前で登録しまーした」
「好きな名前で登録出来るんです?」
「あなーたも移住?」
 此処でヴィクトーは事情を説明した。エドガー達が心配していた事も伝える。
「そーうですか…後でお便り書きまーす」
「それでさっきの質問なんだけど…」
 アンジェリークはエドガーとほんの一時の差で会えなかった悔しさを噛み締めていたが、ヴィクトーも疑問を解決したい欲望を抑えられない。
「名前はこの国の中でアイデンディファイ出来たら十分でーす。第一、移民の場合はー前の国の身分証明書も持ってない事がおーいでしょー?」
 言われてみればヴィクトーもそうだ。
 ヴィクトーは今後の為にアンジェリークと連絡先を交換すると、その足で役所へ向かった。
「仮移民なんですけど、住民票作ってください」
 手渡されたトレンズ語の紙を、職員の力を借りて埋めていく。
「此処に名前を。ミドルネーム等はファーストネームの後ろに繋げて書いてください」
 示された場所にヴィクトーは大きな字で書き込んだ。

マーカス・レナード・ラザフォード

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