二人の賢者

  • PG12
  • 2908字

「お前いい加減にしろ!」
 泣き喚くヴィクトーの髪の毛を掴み、容赦無く頬を叩く母親に向かって、ネスターは酒瓶を振り下ろした。鈍い音が馬車の中に響く。
 突然力を失って倒れ込んできた母親の下敷きになり、ヴィクトーは目を丸くして泣くのをやめた。ネスターは慌ててヴィクトーを引っ張り出した所で、我に返る。
 たった今、彼は妻を殺した。
(…俺は悪くないぞ…)
「見るな」
 幼いヴィクトーを胸に抱く腕が震えだす。
(こいつがヴィクトーを殴るから悪いんだ…)
「…お父さん?」
 顔を上げてヴィクトーが様子を覗った。ネスターは彼の痣だらけの顔を見て、直ぐにでも動きださねばと思った。
 ネスターの妻は彼の従姉でもあった。この時ネスターは伯父であり義理の父でもあるカールが主導する一派に属していた。
 ネスターは一派の中では少し浮いていた。考え方が盗賊らしくないだの、女々しいだのとからかわれ続けていた。そんな所を年上の妻に気に入られ、強引にカールに言い聞かされて結婚した。早くに両親を亡くしたネスターに抗う余地はなく、妻には毎晩毎晩おもちゃにされたが、まだそれだけなら耐えられた。
 二年前にヴィクトーが生まれた。それからは、妻はヴィクトーをおもちゃにし始めた。盗賊のグループに赤ん坊が居る時期はそう長くない。最初は自分で産んだ子でありながらもの珍しがって普通に可愛がっていたが、やがてその愛情表現は猟奇的なものへと変化していったのだった。
 妻の死体を見たら皆はどう言う? 一族の若造が、変わり者のネスターがカールの愛娘を殺したと騒ぐだろう。逃げなければ自分とヴィクトーの命が危ない。
「静かにして待ってるんだ」
 ネスターは妻の死体を担いで馬車を出た。森の中には木の葉の間を縫って陽光が差し込んでいる。盗賊の活動時間は夕方から早朝にかけてだから、今は皆眠っているだろう。というか、眠っていてくれ。
 ネスターは流れの速い川を見付けると、思い切って彼女の死体をその川に放り投げた。下流へと流され、妻が見えなくなるのを確認した後、急いで馬車に帰ろうとした時、茂みから物音がしてネスターは反射的にそちらに銃を構えた。
(誰かに見られた!?)
「おお…銃を下ろしてください。今見た事は誰にも話しませんから」
 ネスターの不安をよそに、森の奥から姿を現したのは、金髪の旅人だった。ネスターは銃を両手を上げて反抗する気が無い事を示す彼に向けたまま、尋ねる。
「吟遊詩人か。なんでこんな所に居る」
「貴方に会えとの『黄金比の書物』のお達しです」
「なんだそれは」
 ネスターはイライラしながら馬車へと戻ろうとした。旅人だって好き好んで盗賊の所に告げ口したりはしないだろう。今は彼を殺して金品を奪う余裕も無い。相手せずにヴィクトーの所に戻る方が重要だ。
「私は数年後、貴方の目の前で殺されます。見せしめの為に」
「だから何の話だ?」
「貴方は『愚者』にはならないで下さいね」
 そう言って何かを差し出した。燻し銀の十字架が付いたネックレスの様な物だった。
「『ロザリオ』です。貴方と貴方の息子さんに神の御加護がありますよう」
 ネスターは鼻を鳴らすと、とりあえず貰える物は貰っておく盗賊の癖でそれを受け取り、今度こそその場を去った。
「既に十分愚か者だ」
「…そういう事ではないんです…」
 残された金髪の青年は、ポケットから懐中時計を取り出した。蓋の裏側に、娘の写真を貼り付けてある。
 自分は「賢者」に選ばれた。そしてこの世界にやって来て…娘を作った。「黄金比の書物」が定めたルールを破って。
「…でも、貴方も子供の為なら何でもする人ですからね」

 ネスターが馬車に戻ると、ヴィクトーがブルーグレーの瞳で見上げて尋ねた。
「お母さんは?」
 ネスターはヴィクトーを再び抱え上げ、逃げる支度を始めながら言った。
「忘れるんだヴィクトー…お前は俺だけの子供だ。母親なんて居ない」
 そう何度も何度も繰り返している内にヴィクトーは眠ってしまった。ネスターは隣の馬車で眠っていた、年の離れた弟を叩き起こすと、馬二頭と三人だけで仲間の元を後にした。

 その後彼は別のラザフォード一派に保護され、盗賊としての腕を評価され頭領にまでなっていた。
「何だ騒がしいな」
 ネスターは次男のエドガーを膝に抱いて、馬車の中で奪った金貨の計算をしていた。母親は近くの水辺まで洗濯しに行っている。
 作業をやめて一人外に出ると、仲間が金髪の旅人に襲いかかっていた。
「フェリックス!」
 それは数年前に森で会った彼だった。ただ、自分は彼の名前を聞いていないのに、この時どうして彼の名を叫んだのかは解らなかった。
「お前等…ちょっと…」
 何か彼と重要な話をしなければならない。そう思ってネスターは仲間を止めようとしたが、時は既に遅かった。吟遊詩人は致命傷を負って虫の息で、ネスターに微笑む。
「言った通りだったでしょう?」
 ネスターは、彼の持っていた財産を分けようと騒いでいる仲間達の横で、黙って彼を見下ろしていた。
「貴方もそろそろ私の言う意味が解るようになってきたのでは?」
「ああ」
 ネスターはエドガーが生まれてからいつも感じていた。彼は近い内に仲間に殺される。それはそうなるかもしれないという不安ではなかった。必ずそうなるという確証だった。
「これが『書物』のお達しか?」
 旅人は頷いた。ネスターは彼の声が小さくなってきたのでしゃがみ込む。
「『書物』のお達しとやらを避ける事は出来ないのか?」
 旅人は笑った。その口から血が溢れる。もうすぐ彼は死ぬが、その前にネスターはまだまだ聴いておきたかった。
「私の様に罰が下りますよ。全ては」
 旅人の緑の目が焦点を結ばなくなった。
「直々に、『書物』が貴方にお教えするでしょう」
 ネスターは立ち上がると、直ぐ後ろに立っていたヴィクトーにぶつかった。
「わっ、危ねーな近くに立つな」
「ごめん。あのさあ、もしかして知り合いだった?」
 ヴィクトーがしおらしく尋ねるので、答える前に理由を問うてみた。
「俺が皆に教えたんだ。丁度良い旅人が歩いてるって」
 ネスターは暫く考え込んだ後、彼の頭をポンポンと叩いた。
「いや、知り合いじゃねーよ。お手柄お手柄」
 ネスターは馬車に戻りながら、首にかけたロザリオを握り締めていた。
(エドは殺される。それが『書物』の定めた運命だ)
 馬車ではエドガーが、折角ネスターが計算して綺麗に分けた金貨を再びバラバラにして遊んでいた。
(…俺の命一つでこの子の命を救えるなら)
 ネスターは自分が得体の知れない何かに選ばれた、得体の知れない誰かである事に気が付き始めていた。それが何かは今の段階では解らない。だが、フェリックスの言う通りなら、いずれ解る様になるのだろう。
「…エド、金貨で遊びなさんな。俺の仕事が増える」
 フェリックスは見せしめだと言っていた。その得体の知れない何かは、自分がそれに反抗するだろう事も予測している。
「ほらエド」
 金貨を取り上げると駄々を捏ねたエドに別のおもちゃになりそうな物を与え、ネスターは微笑んだ。
(多分…その『書物』とやらが危惧する通り、俺はそれが望む仕事はしないだろうな)

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