第2章:闇を背負う少年

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 こうしてサンドラは片想いの相手の連絡先を手に入れたものの、なかなかそれを役立てる勇気が出なかった。買い物くらいしか外を出歩かないサンドラが再びレイモンドと道で会う機会も無いまま、ひたひたと冬の足音が近付いてきていた。
(学校が休みになったらデートに誘おう)
 早く仲良くならないと、あの顔だ、他の女に取られるかもしれないと彼女は危惧していた。
(何処に行こうかなー)

 レイモンドは自宅の風呂場に居た。彼は服を来たままで、体を浄めている訳ではなかった。
 右手には血の付いた包丁。左手首には過去の物を含めた切り傷が複数あり、水が出しっぱなしにされた浴槽に沈められていた。
(吐きそう…)
 既にレイモンドはかなりの貧血状態になっていた。眩暈と吐き気が絶えず彼を襲い、手足が冷えて硬直しそうだ。
(もう少し…)
 この苦しみを越えれば、解放される筈だ。
 しかし、一体何から解放されたいのか、レイモンドは良く解らないまま、これまで何回も自殺未遂を行ってきた。しかし死に逝く苦しみに耐え切れた事は無く、いつもギリギリの所で彼は生にしがみつくのだった。
 だが、今日はそれを乗り越えた。レイモンドは意識を失いそうになり、それと同時に貧血に因る気分の悪さから解放され始めた。
 彼の耳に玄関のチャイムが届いたのはそんな時だった。レイモンドは当然、それを無視した。甘い死が彼をすぐ近くから誘惑しているのだ。
 しかしチャイムは何度も鳴らされる。その音が鳴る度に、彼は現世へと少しずつ引き戻される。
(誰だよ…?)
 彼が朦朧とした意識で尋ねたのが聞こえたかの様に、玄関前の人物が名乗った。
「レイモンド君ー? 居ないのかな。覚えてますかー? テイラーのサンドラですー」
 その声にレイモンドは無意識に左手を水の中から引き上げた。この二ヶ月間、彼女を忘れた日など無かった。我ながら馬鹿だと思う。一目惚れしてこんなにも入れ込むなんて。
 レイモンドは返事をしたかったが、声を出そうとすると今にも吐きそうだった。最後の力を振り絞り、魔法で玄関の鍵を開けてやる。
 サンドラはカチャリと音がしたので、恐る恐るドアノブに手をかけた。回る。
 レイモンドの家に入ると、まず聞こえたのは水の音だった。部屋や廊下に明かりは点いていない。
「レイモンド君?」
 呼び掛けたが返事は無い。
「…入るわよ?」
 サンドラはとりあえず音のする方へ向かった。浴槽の水が溢れているのだろうか?
「…レイモンド君!」
 風呂場の扉を開けた彼女が見た物は、薄く色付いた液体を垂れ流すバスタブ、床に転がった包丁、そして、血と水でびしょびしょになって座り込んでいるレイモンドだった。

「ありがとう」
 レイモンドはサンドラに礼を言った。左手首にはガーゼと包帯が巻かれ、今彼女は濡れた彼の体をタオルで乾かそうとしている。
 部屋から別の服をサンドラに取ってきてもらって着替えると、レイモンドは先に部屋に入っていた彼女の元に急いだ。貧血で足元がふらふらし、倒れ込む様にして彼女の隣に腰を下ろす。
「何の用?」
 レイモンドは彼女が自分の家を訪ねて来て嬉しかったのだが、頭が回らないのでぶっきらぼうにしか言えなかった。
「クッキー焼いたから…」
 サンドラは震える手で、自宅から持って来た紙箱を取り出した。
「食べるかなーと思って…」
 レイモンドはサンドラの顔を見た。俯く彼女の顔色は、自分よりも悪いんじゃないかと思うくらい青ざめている。タイミングが悪かったな、とレイモンドは初めてリストカットを後悔した。
「ありがとう」
 レイモンドは感謝したが、まだ何かを口に入れられる体調ではなかった。
「何であんな事してたの?」
 今度はサンドラが尋ねた。
(何でって言われてもなあ…)
「特に理由は無い。癖」
「癖であんな死ぬかもしれない様な事をするの?」
 サンドラが顔を上げて責めた。レイモンドは笑って誤魔化す。
「もうやめてよ。約束して」
「貴女に俺の行動を制限する権利があるの?」
 言われてサンドラは口籠もる。無い。
「だっだって、友達が死んじゃうなんてやーよ!」
 漸くサンドラはそれだけの事を言った。レイモンドは笑ったまま何も言わず、まだ気分が悪いがサンドラの持って来たクッキーを摘み始めた。
 電灯も点けないで薄暗い中、長い沈黙が下りる。先に耐え切れず口を開いたのはサンドラだった。
「ねえ御両親は?」
 レイモンドは答えずに、クッキーを食べるのを中断して指を舐めた。
「共働きなの?」
「風呂場で死んだ」
 レイモンドが言うとサンドラは体を震わせ、風呂場の方を見遣った。暗くて気付かなかったが、あそこに遺体があるのだろうかと馬鹿げた想像をしてしまったのだ。
「昔ね」
 レイモンドが付け加えると、サンドラは彼に向き直って自分の無神経な質問について謝罪した。
「良いよ気にしてないから。親と仲良かった訳でもないし」
 実際、両親が生きていた頃も、レイモンドは孤独を感じていた。仕事が忙しかったのもあるだろうが、両親はあまり…と言うより殆どレイモンドと会話する機会を設けなかった。たまに話し掛けても忙しいとか後にして等と適当にあしらわれ、それ以後その話題について触れられる事は無かった。両親はレイモンドの志望校すら把握していなかったのに、その事を気にも留めないまま、挙句の果てにレイモンドを見捨てて自分達だけ現世の苦難から逃げ出した。
「…どうやって暮らしてるの?」
 両親が居て、使用人紛いの従業員を抱える店の社長令嬢は、高校生が独りで生計を立てている事に驚嘆した。高校に入る時に親元を離れる事はたまにあるが、それでも生活費は親が負担するのが普通だ。
「お金は貯蓄と奨学金とバイトでどうにかなってる」
 レイモンドは貧血が再び辛くなってきたので、上体を倒して靴に付いた泥で汚れた床に寝転んだ。サンドラが「汚いよ」と言ったので、渋々ベッドに移動する。サンドラもクッションの上からベッドに移動した。
「なってるじゃない、なってた」
 レイモンドは此処で自殺未遂の動機を思い出した。
「バイトをクビになったんだ」
「どうしてー?」
「喫茶店で働いてたんだけど、マスターが病気で暫く休業するって」
「そうなんだ…」
 自分を上から眺めるサンドラの表情が明るくなるのを見て、レイモンドは怪訝な顔をした。レイモンドの訝る視線に気付いて、サンドラは慌てて言う。
「だったらうちでバイトしない?」
「仕事あるの?」
 レイモンドはなるべく早く新しい仕事を見付けなければならなかったから、当然彼女の誘いには飛び付いた。
 レイモンドは別に死にたくて手首を切るのではなかった。ただそうやって冷たくて優しい匂いのする死の幻影に溺れるのが彼の慰みだったのだ。死にかけている時は、日常の辛苦を忘れられる。自分がこのまま逝くのかそれともまた生にしがみつくのか、それだけに集中出来るのだ。この時だけは、彼は親に捨てられた可哀相なレイモンドではなくなる。
「うちのパパも骨折しちゃってーカウンターに立てないの」
 サンドラはレイモンドの手を取った。
「是非今度店に来てよ」
 彼女は此処に来た当初の目的は諦める事にした。お金の無いレイモンドを遊びに誘ってもしょうがない。それよりも、彼を自分の店で働かせる方が、長い時間一緒に居られると思ったのだ。

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