第5章:変化か妥協か

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 レイモンドは十月になっても定職に就けなかったが、バイトの掛け持ちである程度の収入は得て生活していた。
 サンドラとはあれきりだった。また音沙汰が途絶えて、彼はサンドラが子供を下ろして、自分の事等忘れてしまおうとしているに違いないと思った。
 手首を切る事も、止めるどころか頻度が多くなっていた。彼は四六時中死ぬ事かサンドラの事を考えていて、辛くなると包丁を持ち出した。手首だけでは傷の治りが追い付かなくなって、最近では脚も切った。
「レイちゃん、病院行こう」
 自身もキャロルとの復縁に躍起になって[やつ]れているアーノルドが、ある時初めてレイモンドの傷に気が付いて言った。彼はサンドラの妊娠を知らない。レイモンドは笑って誤魔化しながら首を横に振った。
 そんなある日、電話が鳴った。
「アレキサンダー君?」
 サンドラの母親だった。何かに怯えた様な口調で手短に用件を伝えてくる。
「夫とサンドラが貴方に話があるの。明日の午後一時に家まで来てくれるかしら」
 レイモンドがテイラーを訪ねると、母親が店の前で待っていた。彼は初めて自宅の方に通され、その古いが決して古びている訳ではない建物に感嘆する。
 しかし美しい建築物に見惚れている暇は無かった。居間ではサンドラと父親、アーノルド、そして彼に似た中年の男性が深刻な顔をして待っていた。
「君がサンドラのお腹の子の父親だな?」
 サンドラの父親が感情を押し殺した声で尋ねた。サンドラが中絶していなかった事、そして父親が自分に殴り掛かってこない事に驚きながらレイモンドは頷く。
「父親になるつもりはあるのか?」
 レイモンドはその問いの真意が掴めずに黙り込んだ。父親は続ける。
「私は君の様な奴に娘をくれてやりたくない」
 見知らぬ男性も同意した。
「だが君に収入があり、サンドラが子供を生んでしまえば私達は君達の結婚を止める手立てが無い。だから今の内にはっきりさせようじゃないか。君は妻と子供を養っていく大人になる覚悟があるのか?」
「あります」
 レイモンドの声は掠れていた。実の所、嘘であった。
 そんなに強く生きられるのなら、サンドラを求めたりしなかった。
「結婚を認めるのか?」
 見知らぬ男性がサンドラの父親に問うた。
「許婚の約束は? アーノルドの立場も…」
「俺にはキャロルが居るっつってんだろ」
 部屋の隅で腕を組んで立っていたアーノルドが自分の父親の発言を遮った。
「親父は恋愛結婚で失敗したかもしれない。小父さん達はお見合いで成功したかもしれない。でも世の中には恋愛結婚で成功した人だっているだろ? あんたらだけの経験談で決めないでくれ。大体、何でそんなに拘るんだよ」
「二人共、お互いが嫌なの?」
 サンドラの母親が尋ねた。
「アーノルドの事は大好きよママ」
 大きくなったお腹を摩りながら、ソファーに座っていたサンドラが言った。この場にいる人間の中で、一番落ち着き払っているのは彼女の様に見えた。
「でもね、結婚とかしたい『好き』じゃないのよ。私はママが好きだけどママと結婚したいとは思わない。それと同じ」
 サンドラが目線を上げ、立ったままのレイモンドを見た。レイモンドも見詰め返す。
「親が居ない辛さは貴方が良く知っているでしょう?」
 レイモンドは視線を彼女の膨らんだお腹に移した。あれが自分の子供だと言う。自分でそうなる様に仕向けた癖に実感がなかなか湧かない。
「この子のパパになってほしいの」
 サンドラの言葉に、レイモンドはサンドラの父親を振り返った。
「俺はサンドラを愛しています。サンドラが望む事で俺が出来る事ならやってあげたい。それに…」
 レイモンドの言葉を遮ったのは、アーノルドの父親だった。
「許婚の約束は破棄するよ」
 そして息子を見る。
「好きにしなさい。後悔しても知らないがな」
 彼はサンドラの両親に一礼するとその場を去った。アーノルドもこうしちゃ居られないとその後を追う様に出て行く。
 残された父親は溜息を吐いた。
「アーノルド君に店を継いでもらいたかったんだが…」
 そして傷だらけの少年を見る。
「また私の見えない所で娘に何かされるのは嫌だからな。私の店で働きなさい」

「あの後何て言おうとしたの?」
 二人はレイモンドの十七歳の誕生日に入籍した。レイモンドはサンドラの家に引っ越し、アパートを引き払った。サンドラの父親から仕事を教えてもらいながらテイラーの店で働き始めたが、彼はまだ義父の事を父とは呼べないでいた。義父の方も強引に娘を犯した馬の骨を婿とは認めていなかった。
「あの後って?」
 夫婦の寝室のベッドで寄り添い横たわり、レイモンドはパジャマの袖を捲り上げて左手首を眺めていた。同居し始めてからリストカットが出来ないが、している余裕も無かった。サンドラの臨月も近いし、彼女の分まで働かなくてはならない。
「『サンドラが望む事で俺が出来る事ならやってあげたい』の続きー」
「ああ、あれか」
 レイモンドは言おうかどうか逡巡して止めた。左手をサンドラの腹の上に置き、中に居る我が子を想う。
「内緒ー」
「えー」
 レイモンドの両親は彼に何も遺してくれなかった。だから自分は、自分の子供に何かしてやりたい。
 早く生まれてきて欲しかった。そうしたら、自分が貰えなかった分の愛情まで、この子に注いであげられるのに。

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