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第8章:使命 R15+ 3753字

 以後何年も、二人は妊娠しない様に気を付けてやってきた。
 全てが順調の様に思えた。アーノルドはレイモンド達に遅れる事二年でキャロルと結婚し、テイラーとハッターは合併せずにそれぞれ売上を伸ばしていた。レイモンドの自傷癖も歳を取るにつれて治まっていった。
 レイモンドが王妃の懐妊を知ったのはそんな時だった。
 義父から仕事の一切合切を引き継いだ夫婦は、今や王宮に出入りする身分であった。昔の孤児院時代を思い出しながら、城に来る度レイモンドは溜息を吐いた。こんな煌びやかな場所は別次元の物だと思っていたのに。
「妊婦用の服を作ってもらいたいのだよ」
 若き国王が言った。レイモンドとサンドラは王妃の懐妊を祝う言葉を述べた。
「あとそれで国民への挨拶用の服も」
 二人の採寸やデザインの打ち合わせを終え、自宅へ帰る道すがら、レイモンドは昔捨て去った筈のある思いが再燃するのを感じた。
 レイモンドはまだ少し仕事をしているサンドラを店に残し、自室へと戻った。アルバムを引っ張り出して探すのは娘の写真。
 レイモンドがアーノルドのカメラを借りて撮った、ブランチがサンドラに抱かれた写真が数枚あるだけだった。生まれてから一度も目を開ける事も無く、祖父母に名前を呼んでもらう事も無いまま地上を去った天使。
「何を見てるのー?」
 残業を終えていそいそと自宅に戻って来たサンドラが夫の姿を見付けて尋ねる。近寄って来た彼女はレイモンドが持つ物を見て目を逸らした。サンドラは未だに娘の写真を直視出来ない。
「サンドラ」
 レイモンドはアルバムを棚に戻すと立ち上がって妻の肩を抱いた。
「もう一度やり直したいんだ」
 サンドラは彼の思いが生半可な物ではない事を感じ取った。また子供を殺してしまうかもしれない恐怖が頭から離れなかったが、サンドラは彼の望みを叶えてやる事にした。

 レイモンドの二番目の子供を見た感想は、とことん自分は天に嫌われているらしいという事だった。
 赤ん坊は男で、先に生まれた娘とは違い体重も内臓機能も正常だった。しかし天は彼に色という色を予め与えていなかった。唯一眼だけが血の色…レイモンドが執着する生の色に染まっていた。
 まず、レイモンドは彼にフェリックス・ロイという名前を与えてやった。元々、自分と母親に共通の名前を与えようと思っていたが、その瞳の色を見て浮かんだ名前に急遽変えた。最近流行りの有り触れた名前だが、彼程ロイという名前が似合う人間は居ないだろう。
 しかし名前は与えてやれても色を与えてやる事は出来ない。それをどうやって埋めていってやるかが自分の使命だと思っていた。
 それに、苦しいのは自分達だけではないのだ。
「法律が出来て助かったよ。フェリックスの事は病院にも連れて行けるし、学校にも行かせてあげられる」
 窓から霞んで見える城の影を見上げた。レイモンドはどうしてその法律ができたかを知っていた。自分の身に不釣り合いな程の責任を背負う代わりに。

 意外にも、もう一人欲しいと言ったのはサンドラの方だった。次の年には彼女は次男を出産した。今度こそ文句の付け所が無い、健康な男の子だった。三人目にして漸くレイモンドは天に許してもらえたと思った。その時は。
 フェリックスが学校に上がる頃、レイモンドに再び気に病む事が出来た。フェリックスはあまりにも良く出来た子だった。弟のアレキサンダー・ナイジェルは年相応に手がかかる子供だったが、フェリックスは両親が何も言わずとも彼等が望む行動を取った。サンドラは自分の息子が従順で気立てが良い事を喜んでいたが、レイモンドは逆に気に病んでいた。これでは自分は彼に何もしてやれない。する必要が無い。
「パパ、散歩行ってくるね」
 陽射しに弱く、昼間あまり出歩けないフェリックスの運動不足解消や気晴らしの為に、彼が日が落ちた後に外出する事を両親は禁止出来ないでいた。特に困った事に、レイモンドは息子達に嫌われるのが怖くて強く叱ったりする事が出来なかった。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
 レイモンドは例えどんなに疲れていても、フェリックスが帰って来るまではコーヒーを飲みながら起きて待っていた。時にはフェリックスは日付が変わっても帰って来ない。それでも彼は必ず息子を裏口で迎える役目を投げ出さなかった。
「兄貴だけずるーい! 俺も夜に外出たーい!」
「アレックスは昼間遊べるでしょー」
 サンドラが明日の夕飯の下拵えをしながらアレックスを宥めた。夫婦はフェリックスとアレックスを全く同じ様に育てていた。勿論、フェリックスのハンディキャップは考慮されている。それを埋め合わせる為に両親はかなり彼に色々な事をしてやっていた。だが、レイモンドは幾ら彼に何かを与えても満たされる事が無かった。彼の為にしている事の実感が無かったのだ。
 同じように育てているつもりなのに、二人は性格や趣向の面でかなり違っていた。時々レイモンドは、彼等を同じ車両に乗せて育てていては、いつかどちらかが窓から飛び降りてしまうのではないかと不安になったが、それを口に出す事は無かった。
「ただいま」
 深夜に帰って来るフェリックスはいつも、服や髪に煙草と酒の臭いを染み込ませていた。
「おかえり。お風呂入んなさい。あと、あんまり遅くにならない様にね」
 レイモンドはいつもそれしか言えなかった。何か悩みがあって非行に走っているのなら相談してほしかった。だが、フェリックスくらいの歳には既に日常的に自殺未遂を繰り返していた自分に、彼の悩みを解決してやれる自信は無かった。
「うん…」
 フェリックスはチラリと袖口から覗いたレイモンドの手首を見た。日常生活で付いた筈が無い傷痕が、まるで手枷の様だった。レイモンドがフェリックスの非行を知っている様に、フェリックスはレイモンドのかつての…もしかしたら現在も続く癖を知っている。だが二人共何も言わない。言えば今のこの幸せな生活を失いかねないから。

 そうして互いに見逃し合いながら、月日は流れた。フェリックスの十八歳の誕生日が近付くにつれ、レイモンドはそわそわし始めた。
「フェリックスはブルーナちゃんと結婚するつもりかな? あの子とはもう長いもんね、フェリックスはすぐ相手変わるのに」
「せっかちねえ。あの子達のペースでゆっくりさせれば良いじゃない」
「えーだってー」
「私達は結婚早かったけどーフェリックスは貴方みたいに馬鹿じゃないわよ」
「ギクッ」
 夜に夫婦はそんな事を話し合いながら、息子の成長を喜んでいた。だがレイモンドの方は同時にかなり焦っていた。結局の所、自分はフェリックスに何かしてやれたのだろうか? 何も出来ていないなら、彼がこの手を離れて行く前にやらねばならない。だが何を?
 そんなある日、フェリックスがとうとうレイモンドの傷に触れた。
「その傷は俺の所為?」
 彼は自分に色が無い所為で父が悩んだのかと心配していたのだ。息子の優しさを感じてレイモンドは嬉しかったが、その次にフェリックスが言った言葉で、彼はやり直せない大きなミスを、再び犯していた事に気が付いた。
「でも俺もパパの名前が欲しかった」
 フェリックスが欲しがっていた物は、レイモンドが何の価値も無いと蔑ろにしてきた物だった。思い付きで変更した息子の名前。名前なんかよりもっと良い物を与えてやろうというエゴ。
(…傑作だ)
 レイモンドは目の上を手で押さえ、そのまま後ろに倒れた。ふわふわのベッドの上に寝転んだ筈なのに、背中に感じているのはあの薄汚れたアパートの板張りの床の感触だった。

 夏の間フェリックスは殆ど自室に引き篭っていた。しかしこれは夏の陽射しを嫌うフェリックスには毎年の事だったし、両親は特に気にしていなかった。
「髪の毛切らないのー? 暑苦しいわよ」
 食事の為にダイニングに下りて来たフェリックスに、母親が伸ばしっぱなしの白い髪の毛を指して言った。横から見ていたレイモンドは違和感を感じた。いつもは園芸をする時以外、神経質な程身なりに気を遣う彼が髪を放置している?
「その内切るよ」
 しかしフェリックスが髪を切りに行く事は無かった。八月に入ってからはちょくちょく外出もしているのに、ついでに切って来ないのは何故だろう。そんなに気にかかる事が他にもあるのだろうか。
 毎日の様にフェリックスに声をかけようとして、躊躇う。そうしている内に彼は自室に戻ってしまう。自分の息子に声をかける勇気が無いなんて、笑い話だ。
 彼は学校を卒業しても同居していてくれるだろうか。フェリックスが家業を継がない事は解りきっていた。彼は弱視と眼球振動の為に仕立屋の仕事は出来ないのだ。いや、決して息子の自立を拒絶している訳ではない。だが、まだ彼を手放したくない気持ちとで揺れていた。
 レイモンドはフェリックスばかり気にしていたので、アレックスが口には出せない悩みと葛藤を抱えている事に、まだ気付けないでいた。