Cosmos and Chaos
Eyecatch

第70章:赤と黒

  • G
  • 3362字

 フェリックスはホテルへ戻ったが、自分の部屋には戻らず、真っ直ぐにアンジェリークの部屋に向かった。
《出て行けとは言わないけどねえフェリックス》
 アンジェリークが昨日今日に何回言ったか解らない言葉をもう一度繰り返した。
《あたしの身持ちの良さの評判を損ねたくなかったら、あまり遅くならない内に自分の部屋に戻ってよ》
《結局出て行けって事だろ》
 フェリックスはアンジェリークのベッドに座り、彼女に借りている分厚い小説をまた広げる。アンジェリークは溜息を吐いて、彼の隣に寄り添うように座る。彼女が睡魔に耐えられなくなる頃、フェリックスは部屋を出て、ホテルも出て、病院やこの近辺をふらふらと彷徨うのだった。
 突如フェリックスはアンジェリークの手を掴むと、口元に引き寄せてその甲にキスをした。
《…何やってんの?》
《ジュリヤンの真似》
 フェリックスは悪びれた様子も見せずに、借りている小説の主人公の真似事をして見せた。愛していない女性にキスをする。フェリックスはアンジェリークを必要としていたが、それは決してブルーナに対して見せた異常な執着…綺麗な言葉で言えば愛…等ではなかった。ただ彼は、自分の本性を知り、受け入れる人間に傍に居て欲しかった。
 ウィリアムズに居た時は、一人だけそういった人間がいた。ボイスはフェリックスが実際どんな人間かを知っている。本来学生が立ち入るべきではない繁華街に年齢を偽って入り込んだり、次々に恋の相手を変えて心の慰みにしたりする彼を知っている。しかしボイスは遠く離れた祖国に居るし、フェリックスは国に帰る事とボイスを諦める事を天秤にかけた結果、後者を選んだのだった。
《馬鹿みたい》
 アンジェリークは手を引っ込めた。本当に馬鹿だと思った。こんな男を好きでいる自分の事が。
 アンジェリークは彼がする事にもう文句を言わなかった。上手くいけばこのままサーカスと一緒に行動してくれるかもしれない。そうでなくても、まだ入団して日が浅く、それなりに貯蓄もある彼女…そしてかつて活躍していたアンボワーズ国に帰りたくない彼女は自由の身になり易い立場であったから、フェリックスがマイルズに残ると言うのなら、自分も残る事は可能である。
 彼女はフェリックスの美しい横顔を眺めながら考えた。彼がマイルズで医者として生活する事にしたら、自分もマイルズに住もう。何故だか知らないがこの年下の男は自分を頼ってくれているし、同居や…或いは結婚を申し出て来るかも知れない。アンジェリークはフェリックスが自分を愛していようがいまいが関係無かった。本来彼女は受け身な人間ではないから、彼女がフェリックスの事を愛する事が出来る状態であれば、他は何でも良かった。
 そしてそう思う自分がとても馬鹿らしかった。フェリックスを追い駆けて、自分が得する事等一つも思い浮かばなかったのに、彼女はこの美しい少年を手放せない気がしていた。
《…そうだ、もう一つ聞きたい事があったのよ》
 フェリックスの肩にもたれて、一緒に小説を読んでいたアンジェリークが言った。一つ目に彼女がフェリックスに聞いた事は、ずばりこの小説についてだった。

《フェリックスはこの小説知ってる?》
 昨日即日で医師免許を取得して帰って来たフェリックスは、今日と同じくアンジェリークの部屋に逃げて来た。アンジェリークは彼が昨日劇場で何をしたか、自分のファンだと言って話しかけてきたアレックスに聞いて知っていた。その話題になるべく触れないようにした所、アンジェリークは父の形見の品の内、色々と謎がある物についてフェリックスに尋ねたのだった。
《…知らないな。アンボワーズ語じゃないか。ピエールに聞いた方が良いんじゃない?》
《とっくに聞いてるわよ。作者とかにも見覚えない?》
 フェリックスはぱらぱらとページを繰っていた手を止め、表紙を眺める。
《スタンダール…『Le Rouge et Le Noir[赤と黒]』…『Le Rouge et Le Noir[ル・ルージュ・エ・ル・ノワール]』はサーカスの名前だろ?》
《そうよ。あたしが付けたって言ったじゃない》
《ああそうか。じゃあどっちも聞いた事が無い》
 フェリックスはアンジェリークに本を返そうとして、やめた。
《借りてて良い?》
《どうぞ。あとこんな本もあるの。全部父の形見なんだけど、誰もこんな作品知らないって言うのよ。あたし、父の生まれ故郷を知らないの。でも、ほら、ちょっと気になるじゃない? 何か手掛かりになる様な事を知らないかな?》
 フェリックスはアンジェリークがトランクから大事そうに取り出した本を眺めた。ガストン・ルルーやヴィクトル・ユーゴー、モーリス・ルブラン、ジュール・ヴェルヌ等の作家名が書かれているが、どれもフェリックスは聞いた事が無かった。一番新しい本にはサン=テグジュペリという著者名が記されている。そして全てアンボワーズ語で書かれていた。フェリックスはともかく、アンボワーズ生まれのピエールが一つも知らないなんて変な話である。
《アンボワーズの売れない作家の本ばっか集めてたとか?》
 フェリックスの案にアンジェリークが首を振る。そして『赤と黒』の本の、その製作年が書かれているページを開いて見せた。これにはフェリックスも眉を顰めた。アンボワーズで使われている暦で考えると、ゆうに今から数百年後に世に出る予定の本と言う事になってしまうが、そんな馬鹿な話がある訳が無い。歴史の古いエスティーズ暦で考えてようやく今から数年後という所だ。
《これは何処の暦だ?》
《ごめん! やっぱり良い! もうやめようこの話は!》
 アンジェリークはフェリックスの顔を見て、怯えた様に本を片付けた。得体が知れない父親…そしてその娘の自分…それ以上は考えたくなかったのだ。

《…これなの》
 それでもアンジェリークは、誰かに尋ねる事を止められなかった。いつか誰かが父の形見の品物に適切な説明を与えてくれるかもしれない。そう期待していたのだ。
 アンジェリークは昨日と別のトランクから、弦楽器を取り出した。木で出来たくびれのある箱に弦が張ってあり、添え付けられている弓で弾くらしい。
《これ》
 フェリックスが、アンジェリークの待ち望んでいた言葉を口にした。
《見た事ある》
《何処で!? 何て言う楽器なの?》
 アンジェリークはフェリックスに掴みかかる様にして問うたが、フェリックスは首を横に振った。
《名前は知らない。昔街で吟遊詩人的な感じの人を見かけてさ。その人が弾いてた》
 フェリックスはアンジェリークの為にその時の事を思い出そうとした。楽器を手に取り、詩人の真似をして弾いてみようとするが、音は上手く鳴らなかった。
《これそうやって弾くんだ》
 フェリックスが箱を左手で支えて肩に乗せたのを見て、アンジェリークが感嘆する。
《金髪で緑の眼をした若い男の人だったよ。アンボワーズ訛りだったけどエスティーズ語を話してた》
 マイルズやコリンズ、そしてウィリアムズ等で使われている言葉はエスティーズ語である。
《あたしの父かもしれない。父も確か金髪だった。眼は緑よあたしと同じ》
 フェリックスは頷く。
《ちょっと話したけど変な事言ってたな。俺が幸運をなんたらかんたら。俺が小さかったのもあるだろうけど、全然意味不明って感じ。ごめんあんまり力になれなくて》
《ううん。凄く貴重な情報をありがとう。それって何年前の事?》
《俺が八つの時だから…十年くらい前》
 アンジェリークは、父が自分と母を置いて国を出てから六年間も生きていた事を初めて知った。
《ウィリアムズの後に何処かに行くとかって言ってた?》
 フェリックスは楽器を鞄に丁寧に仕舞うと、唇をきゅっと結んだ。言うべきか言わないべきか悩んでいる風だった。
《何でも良いから教えて!》
 アンジェリークが思わず怒鳴ると、フェリックスは重い口を開いた。
《次の日…ラジオで…北門の外で身元不明の…金髪の若い男性が…賊に襲われて死んだって、ニュースが…》
《そう》
 アンジェリークはフェリックスが想像した程驚いていなかった。とっくに死んでいるとは予想していたのだから、当然と言えば当然であるが。
《ありがとう話してくれて》
 フェリックスは彼女の顔を見れなかった。本を掴んで立ち上がると、昨日よりも大分早めの深夜徘徊をしに部屋を出て行った。