第3章:過ち

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  • 3858字

「えーっと、アレキサンダー君ね。じゃあ今日からよろしくお願いするわ。学校がある時間帯はサンドラ達がどうにかするから、無理しないで良いわよ」
 サンドラに似て世間知らずそうな四十路くらいの母親が、入院中の夫が用意したマニュアルをレイモンドに差し出した。レイモンドはスーツを仕事用に貸してもらい、カウンターに立つ。
「いらっしゃいませ」
 前のバイト先で接客経験を積んでいたレイモンドは仕事を楽々と[こな]した。交通事故で入院中のサンドラの父が復帰するまでの数ヶ月、彼とサンドラは店で幸せな時間を過ごした。許婚の事等知らない客達は二人をお似合いだと言ってくれたし、サンドラの母親は仕事が出来ないらしく、普段は自宅に篭ったり出掛けたりで店には来ない。
 しかし、その幸福も春には終わりを告げた。
「ただいま」
 サンドラの父親が歩ける様になって退院したのだ。店に入って来た父親を見て、レイモンドと談笑していたサンドラは顔色を変えた。しかし次の瞬間には笑みを作って父の復帰を祝わねばならなかった。
 レイモンドはその日、テイラーの店を辞めた。サンドラの父が復帰した今、彼が居ても仕事が無いし、元々働いていた喫茶店も営業を再開していたから、喫茶店に戻るのが筋であろう。
 寂しさを笑って誤魔化すレイモンドとは対照的に、店を出て行く彼を見送るサンドラの母親は、困った様な寂しそうな顔をしていた。
「サンドラ」
 その夜、サンドラの部屋を母親が訪ねて来た。
「言わなくても解ってるわよね?」
「何をー?」
 サンドラは[とぼ]けた。母親が苦笑する。
「あのね、貴女とアーノルド君の事よ。ママ達はね、自分達の経験を活かして、貴女達の事を思って言っているの」
 サンドラは黙ったまま、母親の目を見ない様にしていた。
「今はね、アレキサンダー君の事が好きかもしれない。頭も良いしかっこいいものね。でも、いつか苦労する時が来るわ」
 母親はアレキサンダーに両親も財産も無い事と、どんなに暑くても彼が決して半袖の服を着ない事の理由を知っていた。
 母親が部屋から出て行くと、サンドラは親の目を盗んで電話をかけに行った。
「時々家に遊びに行って良い?」
「いつでもどうぞ」
 レイモンドは新しく増えた左手の傷を止血しながら、電話の向こう側で答えた。

「レイちゃん!」
 レイモンドは振り返らずとも誰が自分を呼んだか判った。自分にちゃん付けをする人間はこの世に一人しか居ない。
「テイラー辞めたのか!?」
 喫茶店のテラスのテーブルを拭き終えて振り返ると、やはりアーノルドだった。
「そっちこそ彼女は?」
 いつもはキャロルを連れて店に来る彼が今日は一人だった。レイモンドが地雷を踏んでしまったと気付くまでに数秒とかからなかった。
「それなんだよー! 話聴いてー!!」

 レイモンドは店の主人に許可を得て早めにバイトを切り上げた。陽が高くなってきた春の夕刻を、男二人でぶらぶらと彷徨う。
「親父に別れさせられたんだ」
 公園のベンチに腰を落ち着けた所でアーノルドが言った。
「でも俺は絶対諦めない!」
 そしてレイモンドに向き直ると、彼の肩を掴んで懇願した。
「あんたもサンドラの事を好きなら諦めないでくれ」
 アーノルドの目付きは真剣だ。
「どちらかが違う相手と結婚した時点で、俺達の勝ちだ」

 アパートに帰ると、部屋の前でサンドラが待っていた。
「えへ、家出ー」
 明るく言った彼女の目は笑っていなかった。レイモンドはとりあえずサンドラを家の中に招き入れる。
「アーノルドがキャロルと別れさせられたって聞いた?」
「うん」
 サンドラに茶を淹れてやりながら頷く。
「キャロルが小父さんの反対に耐え切れなくて振っちゃったの」
 サンドラは茶を一口だけ飲んで、続ける。レイモンドは黙って聴いていた。
「私も家に居るとそうなっちゃいそうで」
 二人は互いに想いを伝えた事は無かった。しかし、それは互いの気持ちを理解するのに言葉が必要無かっただけであり、確かに愛し合っていた。
(だけど愛って何だ?)
 レイモンドはアーノルドの言葉を思い出していた。
『俺達の勝ちだ』
(まるでゲームみたいに言うよな)
 今夜はサンドラを泊める事にした。もう日が暮れているし、今から彼女を家に帰したって何も良い事等無い。不審者に狙われるかもしれないし、両親にはこっぴどく叱られるだろう。自分が送って行けば尚更。
 レイモンドは愛を理解していなかったが、自分なりの解釈で愛し抜いてやるつもりだった。
「サンドラ」
 シャワーを貸して欲しいと浴室へ行った彼女を追いかけ、レイモンドは服を脱ごうとしていた彼女の肩を掴んで振り向かせた。
「愛してる」
 レイモンドは彼女の合意も得ずに口付けた。突然の事に抵抗するが、彼の力には太刀打ち出来ないサンドラの肌に指を滑らせながら、レイモンドは何かに勝ったつもりでいた。

「家に帰りたくない」
 レイモンドのみすぼらしいベッドに二人は横になり、カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めていた。互いに向かい合って、片方の手の指を絡ませる。
「ずっと此処に居たら良いよ」
 レイモンドは勝ち誇った笑みを浮かべる。温かい彼女を引き寄せて抱き締めた。
「お金は貯蓄崩せばなんとかなるし」
 貯金が無くなるまでには学校を出てまともな職に就けるだろう、と珍しく楽観的に考える。
「あのねー、レイの故郷に行きたい」
 サンドラも彼の背中に手を回し、肩に顔を埋めた。明るい色の首筋がレイモンドの目の前に露わになり、理性が正常に働かなくなっている彼は思わず彼女を舐めた。サンドラは最早拒まなかった。
「行っても、家売っちゃったから何も無いよ」
 甘い声が耳元で囁かれ、サンドラは鳥肌が立つ。少し起き上がってレイモンドの顔を見た。本当に美しい少年だった。肌と言い顔立ちと言い声と言い…恋しているが故の錯覚だろうか?
(でも中身はボロボロね)
 サンドラはレイモンドの両親を知らない。レイモンドは美貌を両親から受け継いだかもしれないが、精神的な欠陥も親譲りだろうと感じていた。聞けばレイモンドは両親が死んだ理由に心当たりが無いらしい。きっとその通りで、彼等が己を殺害した理由等無かったのだろう。彼を置いて逝った理由も。
 理由無き殺意は存在する。何度自分が頼んでも自傷癖を正せない恋人を見て、サンドラはこれまで考えた事も無い事を知った。
「良いのー。ブラブラするだけー」
「じゃあ馬車乗ってかなきゃ」
「遠いって行ってたけど何処なのー?」
「南の端。晴れてたらトレンズ島が見えるよ」
 鍔の大きな帽子で顔を隠しながら、サンドラはレイモンドの腕に掴まって相乗り馬車に乗り込んだ。レイモンドが実際の歳よりも大人びた顔付きだから、平日の昼間にうろついてもあまり怪しまれなかった。勿論、中卒で社会に出る人間も少なくない世の中だからというのもある。
 レイモンドの先導で南の街を歩きながら、サンドラは心を決めていた。
 彼と決して離れない。レイモンドはサンドラが知らない事、持っていない物の具現だった。彼以外の誰がこれ程に儚く脆い精神の上に、彼に比肩する美と思慮深さを持っているだろう。
 押せば倒れてしまいそうな危ういバランスで立つ彼を支えたい。
「ほらあれ」
 二人は高台に登っていた。レイモンドの生まれた街が一望出来るが、レイモンドは海の方を指していた。
「トレンズの城壁。見える?」
「うん」
 サンドラは生まれて初めて外国を見た。と言っても国を囲む塀だけだが、国の外の物を目にして彼女は興奮した。
「南は城壁が無いのね」
「海だからね。海賊やトレンズが攻めて来るのを恐れて建ってた時期もあるらしいけど、今は割と平和だし、漁に出づらいから」
 二人は丘を下りた。船の少ない波止場に腰を下ろし、レイモンドが珍しく自分から話し始めた。
「両親は城壁の代わりに、魔法で国を守る仕事をしてた」
 サンドラは黙って続きを促す。
「何となく自分もその仕事に就こうと思ってプライスに入った」
 太陽が海面に反射してレイモンドの顔を照らしていた。髪の毛が光に透けて茶色く輝いている。
「でもやっぱ難しかったな」
 レイモンドはバイトや家事で十分に学習時間を確保出来ず、入学してからずっと成績が下がり通しだった。このままでは留年してしまう。
 事情を知るサンドラはかける言葉が見つからない。
 レイモンドがサンドラの手を引いて立ち上がらせた。見詰めているのは波が寄せる波止場の縁である。サンドラは彼がしようとしている事に気付いて恐怖を覚えたが、止めようとはしなかった。
 理由無き殺意は存在する。
 レイモンドは成績不振に託けてその殺意をごまかそうとしているだけだ。
 サンドラは彼の手に自分の手を委ねた。なに、此処は波止場だ。人の目が無い訳ではないし、本当に死んでしまう前に誰かに助けられるだろう。サンドラは知りたかった。自殺未遂を繰り返す彼が、いつも何を見ているのか。
 レイモンドはサンドラを波止場の縁に誘いながら考えた。二人が死んだら、サンドラの方は親が遺体を引き取るだろう。自分はどうだ? 多分無縁仏になって共同墓地に適当に埋められるのだろう。
 そう思うと無性に腹が立った。サンドラの体はもう自分の物なのに、此処で飛び込んだら彼女の両親に引き離されてしまう。仮に死ななくても、病院に運ばれたら警察に連絡される。今頃は彼女の捜索願いも出されているだろうし、どちらにせよ、だ。
 レイモンドは今や自ら海へ向かって歩いているサンドラを引き戻すと、キスをした。
「帰ろう」

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