第26章:黄金比の書物

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  • 2464字

「オニキス」
 私は未来の婚約者の名を呼んだ。と言っても、十も歳が離れていて、相手はまだよちよち歩きの赤ちゃんだった。私は森の奥の小国の姫で、恋もまだ知らずに、ただ無邪気に幼馴染みの様な彼を可愛がっていた。
「大丈夫よ、ちょっとの間くらい。怒られる時は私も一緒だから、ね?」
 海辺の国、そしてオニキスの国カルセドニーに遊びに来た時、護衛の目を盗んで浜辺に散歩に来てみた。初めて間近で見る海や波に見とれながら、オニキスの手を引いて歩く。
「後で足だけ入ってみても大丈夫かしら? タオルを持って来れば良かったわね。…?」
 言ってふと前を向くと、水色の目が鮮やかな男性が、此方を睨んで立っていた。
 私は嫌な気を感じて、オニキスの手を引き、自分の側へ引き寄せる。
「サファイア・コランダムだな?」
 その男の人が言った。彼はまだ十代に見えたが、その雰囲気はまるで何千年もの経験を積んでいるかの様だった。
「『迷いの森』の」
「そう…ですけど…貴方は?」
「ターコイズと言う。コランダムの姫よ、あの場所から立ち退け」
 私は困惑した。
「そんな事…私に言われましても…」
「どうせあと何年かすれば判る。最終決定を出すのは、お前になるだろう。それに…」
 男が首を傾げて見つめているオニキスに目を留めた。男はオニキスに向かって手を伸ばす。
「…まあ、説明等せずにこうやって脅す事も出来るが?」
 男が軽く手を動かすと、私の左手が重くなった。見ればオニキスがぐったりしている。
「オニキス!? 一体何をしたんですの? お願い彼を治して!」
「お前とお前の国があの場所から立退くと約束するならな」
「だから! そんな事此処で私が今すぐ決められる事ではありません!」
「ならば…」
 今度は男が私に手を伸ばした。
「きゃあぁ!」
 しかし、彼は奇術をかける前に腕を引っ込めた。護衛が私達を見付けて矢を放ったのだ。
「サファイア様に触れてみろ! お前の首が飛ぶぞ!」
 男は舌打ちすると捨て台詞を言い残して、現れた時と同じく忽然と姿を消した。
「今回は退いてやろう。だが、『黄金比の書物』は必ず手に入れる…」
「大丈夫ですか!? サファイア様」
「え、ええ…それよりオニキスが…」
 私は護衛に駆け寄り、オニキスを彼等に預けた。海風が寒いだろうと上着を持って来てくれていた護衛がそれを私の肩にかけても、震えが止まらなかったのを覚えている。
「一体何だ、魔法か?」
「夢でも見てるみたいだ」
「馬鹿言っちゃいけねえ、魔法なんて現実には無い、手品か何かだ」
「まだ近くに居るかもしれないから気を抜くな」
 そんな護衛達の会話に、オニキスが目を醒ました。私は一安心し、彼を再び抱えて抱き締める。
「良かった…」

 私は目の前に置かれた不思議な物体を目にしながら、その時の事を思い出していた。
「畑耕してたら出てきたんだべさ。何か判らねえけど領主様に献上すっぺ」
 訛りの強い初老の農夫がこれを持って来たのは、サージェナイトを見送った直後だった。
「…何処から出てきたんですか?」
 真っ黒な、ちょっと小さめの図鑑くらいの大きさの直方体を見詰め、私は困惑した。
「畑だべ。土を入れ換えようと思ってかなり深くまで掘ってたさ」
 農夫を仕事に戻してやり、私はそれを自分の部屋に持ち帰った。ある単語が脳裏を過ぎる。
『黄金比の書物』
 こんな物体は見た事が無い。色は何処を見ても真っ黒で、傷や光沢は一切無い。角は、長らく土の中に埋もれていたとは思えない程鋭利で、まるで今しがた製造されたばかりの製品の様。
 持ってみると、中身が空っぽなのか、見た目ほどの重さは無い。しかし軽く叩いてみても、空洞の様な音ではなく、中に何か詰まっている様な音がする。不思議な物体…。
 私はふと思い浮かんで、使用人に定規を持って来させた。
 もしかすると、辺の比率が黄金比だったりしないだろうか。とても書物には見えないが、もし黄金比なら、ターコイズが言っていた『黄金比の書物』とは、これの事では?
 そうならば、これを渡せば此処を立ち退けとも言われない筈。
「あっ」
 手袋をしていたからか、慌てたからか、私は定規を取り落とした。手袋を外し、使用人に定規を拾ってもらって仕切り直す。
「ふふ、何も急ぐ事等ありませんのにね…」
 使用人に礼を言って直方体に手を添えると、その物体が突然色を変えた。真っ黒だった物体が内部から七色の光を放っている様だ。
「な、何ですの…」
『サファイア・コランダム』
 私は突然呼びかけられて手を引っ込め、悲鳴を上げた。知らない誰かの声が突然聴こえたのだ。使用人が心配そうに私を見る。
「どうかなされましたか!?」
 彼女も突然光り出した物体に驚いてはいるものの、先程の声は聴こえなかったらしい。
『選ばれし賢者よ。やっと私を見付けたか。さあ、私をターコイズ等愚者の手の届かぬ安全な場所へ送るが良い』
「賢者…?」
 私は使用人の手を握り締め、謎の直方体を見ながら聴き返した。喋っているとすれば、この直方体以外に考えられない。
『然様。そなたは賢者に選ばれた。そなたはこれから世界の法則を司る役目を担う。その代わり、そなた自身はその任務の遂行の為に世界の法則を破る存在である事が出来る』
「…何だか良く解りません事よ」
 直方体の放つ光の色味が少し変化した気がする。
『そうであろうな。説明は急いでいない。とにかく、今は私をターコイズから隠すのだ。さもなければ、この国だけではない。宇宙に存在する世界の全てが崩壊しかねん…』
 声はそう言うと消えた。直方体から発せられていた光も徐々に収まり、数分後には元の真っ黒な箱に戻る。
「領主様、いかがいたしましょう?」
 使用人が漸くそう言った。私は額を手で押さえながら、頼み事をする。
「私の代わりに測っていただける?」
「承知しました」
 その後使用人が素手でその大きさを測っても、何も起こらなかった。やはり、私はこの訳の解らぬ物に選ばれてしまったらしい。
「領主様、ご報告致します」
 使用人が測り終えて言った。
「辺の長さの比が見事な黄金比です」

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