第55章:夜の劇場

  • G
  • 2956字

「相変わらず凄い人ですね」
 フェリックスがうんざりして言った。ウィリアムズで一番流行りの店でも、今の劇場内の様にごった返してはいなかった。
「そうだな」
 隣で観客のチェックをしていたエリオットも頷く。昼公演が何事も無く過ぎ、夜公演はマイケルが代役を務めるので、フェリックスはエリオットと共に場内の警戒に当たっていた。
 しかし、疲れが溜まっている彼等の目は全ての客の顔を追う事が出来ていなかった。必然的に、明らかに目当ての人物でない人…女子供はチェックしない様にするしかない。
「すみません、Jの十二番の席って何処ですか?」
 フェリックスは席の場所が判らずに迷っている客に尋ねられ、案内する為にその場を離れた。尋ねてきた客に一瞬だが気を取られた二人は、暗い銀の髪の兄妹が腕を組みながら目の前を通り過ぎた事に、気が付いてはいたものの少しも目に留める事が無かった。

 その頃アレックスは、なかなか会場に入れないでいた。入口に兄とエリオットの姿を確認していたからで、化粧をして変装しているとは言え彼等の目をごまかせる自信は無かった。
(なんであの二人は普通に入れるんだよ…)
 自分も女装すればよかったと一瞬思ったが、自身のひらひら姿を想像すると吐きそうになった。生憎アレックスは長身でがっちりした体格だし、髪も短すぎでどうやっても無理がある。準備が良いマーカスの事だから鬘も持っているかもしれないが。
 しかしアレックスはどうしても劇場に入りたかった。チケットを買った時に貰ったパンフレットに、アンジェリーク・キュリーの名を発見したからだ。今はヴィクトーやマーカスに関係無く、ただ憧れの元格闘家を生で一目見たい。そんな思いが勝っていた。
 気付くと入口付近から二人の姿が消えていた。開演時刻が近いから、場内の監視にでも行ったのだろう。アレックスは意を決してチケットを無言の回収係に渡すと、最後列の左端の席に座った。

「うへへへへへへ」
 出番を待ちながらピエールは浮かれていた。昼公演でレベッカが引退しない事を発表したので、嬉しくて仕方が無いのである。
「おいそろそろ命綱付けて上に登れ」
 アンドリューが釘を刺す。今はレベッカとオズワルドが舞台に出ていて、この後暗転し、マイケルとピエールの出番になる。ピエールは天使に扮して、舞台の上からロープを頼りに舞い降りる演出だ。
「どどどどうしよもももうすぐ出番」
「落ち着けマイケル、リハではちゃんと出来てたから!」
 彼等の反対側の舞台袖では、エドガーが緊張するマイケルを宥めていた。そうこうしていると舞台が暗転する。
「ほら、頑張れ!」
 マイケルの背中を押し出す。再び照明が付くと、マイケルが少し強張っているが使える声で台詞を言う。
「ヘレンが行方不明になってもう二日も経つ! 結婚式が近付いているのに………」
 エドは舞台袖から舞台の様子、それから客席の様子を覗き見た。異常無し。今、ピエールが舞台に降りてきた。
「ちょっとちょっとそこの人! ここら辺で変な穴見なかった?………」
 舞台装置が正常に働いて一安心する。この先あの悪夢のような事故が再現される事が無くても、ハーキュリーズのあの事故のトラウマが癒える事は無いだろう。
 さて、次の暗転の後、エドの出番である。一緒に舞台に出るダニエルがエドの手を軽く小突いた。
「今回もピストルを衣装に仕込んでる。何かあったら皆で君を守るからね」
 そう言ってエドの横から舞台を覗き、小声で「マイケルーその調子ー」等と息子を応援している。エドはそれが微笑ましくて表情を和らげた。因みに彼の義父は反対側の袖で出番を待っている。
「お、出番だ」
 再び暗転、ピエール達が反対側の袖に退場する。エドは衣装が崩れていないかチェックすると、瞬時に役に成り切って舞台へと歩み出た。

(なんかこの話、俺の親父の話みたい)
 ヴィクトーはマーカスの横で大人しく劇を鑑賞しながら思った。今の所までの粗筋は、こうだ。誤って異界に迷い込んだ女を、異界の支配者が気に入り、本来殺してしまう所だが妻にならないかと言い寄る。人間界では女の婚約者が、異界への穴を閉じに来た天界の遣いの手を借り、彼女を連れ戻そうとする。
(親父が悪魔であの[ひと]が迷い込んだ女、それから…)
 暗転から戻った舞台に、背中に張り子の翼を付けたエドが立っていた。
「父上は一体何を考えているんだ!? …人間の女に求婚するなんて!」
(俺があの悪魔の息子だ)

 エドガーが出て来て、マーカスは落ち着きが無くなっていた。
(うーん、さっさと終わらせたいなー)
 無意識に腰に提げた銃を撫でながらマーカスが横目でヴィクトーを見る。ヴィクトーは劇の内容に浸ってしまっているのか、マーカスの視線にも気付かず舞台を凝視している。マーカスは首を振ると、意識的に銃から手を離した。
(ま、別に今すぐじゃなくても良いか)

 エドの出番が来ても何事も起らなかったので、エリオットは一安心して劇場の外に出た。これから遅れて来る客の監視をしようと思ったのだ。
 一方フェリックスは劇場の前方でぼんやりと観客を眺めていた。体調不良等を訴える客が居たら誘導するようレベッカに頼まれたのだ。しかし、場内は暗い。弱視のフェリックスには殆ど何も見えないに等しかったので、彼は時々、観客の邪魔にならない様に場内を見回った。
(…っ!)
 フェリックスがアレックスのすぐ横まで来て…そのまま通り過ぎて行った。
(って気付けよおい!)
 殆ど見えてない上に変装したアレックスを見分けろなど、フェリックスには無理な相談である。
(…マーカスの件が終わったら、俺が一人で…あ、エリオットさんとか…兄貴を連れて帰るのか)
 アレックスは上着に隠した大口径リボルバーを、服の上から触った。大体、何故この劇場は武器の持込が制限されていないのだろうか。チェックする時間が無いからか?
 アレックスは考えた。此処で兄貴を捕まえて、洗いざらい話して誰かにマーカスを捕まえてもらえば、ヴィクトーは死なずに済むんじゃないか?
 しかし誰がマーカスを仕留められるのだろうか? 彼は今、一般客の中に座っているから、彼に気付かれずに此方から何か仕掛けるのは無理だろう。一方でいつ彼が銃を抜くかも判らない。
 それでも可能性があるならと、アレックスはフェリックスが再び横を通った時、声をかけようと口を開いた。
「………」
 しかし出来なかった。
 兄が兄でない様に見えたのだ。
(兄…貴…だよな?)
 確かに髪も染めているし、衣装だって役に扮しているが、それくらいでアレックスが兄を見間違える筈が無い。外見は、どう見ても自分と同じ顔をしたフェリックスである。
 アレックスが感じた違和感は、彼の外見ではなく雰囲気から発せられていた。何処がどう違うとは言えないが、アレックスは「兄らしくない何か」を感じ取り、原因不明の恐怖によって声をかけるのを躊躇った。
 自分は彼に拒絶されている。
 アレックスがその理由に気付いた時には、フェリックスはまた劇場の前の方まで立ち去ってしまっていた。舞台の上では、ちょい役のアンジェリークがスラリとした長い脚で闊歩しながら、こんな台詞を叫んでいた。
「あの人はどうして去る者を追うのかしら? 放っておいたら良いのに!」

このサイトではクッキーを使用しています。
詳細