Cosmos and Chaos
Eyecatch

第4章:どうして

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  • 4627字

 初めは夏風邪だろうと思っていた。一週間経っても良くならなかったので、サンドラはある事に思い当たって震え上がった。
 これは妊娠しているのでは? 最近生理が不順であるし、もしやと思いつつ彼女は買い物を装って夏休み中のアーノルドと共にレイモンドの家を訪ねた。家出から数ヶ月、サンドラは一度もレイモンドに会えなかった。単独での外出を両親に禁止され、アーノルドは期末試験やらキャロルの事やらでてんやわんやだったし、レイモンドも訪ねて来なかったからだ。
 アーノルドとサンドラは親の前では仲が悪い振りをしている。今日もサンドラは誰かと一緒でなきゃ外出出来ないから仕方無く、といった風にアーノルドを呼び出した。まさかアーノルドがサンドラの味方だと思っていない父親は、暫くあの憎い小僧の顔を見なかった事もあり、油断した。
 レイモンドのアパートの前でアーノルドは立ち去った。
「俺居ない方が良い感じっぽいねー。そこの公園で暇潰してるからー帰る時呼べよ」
 アーノルドの気遣いに感謝しながら、サンドラはチャイムを鳴らした。数秒後、愛しい声が扉の向こうから問いかけてくる。
「どちら様?」
「レイ…!」
 サンドラの呼び掛けにレイモンドは返事もせず、扉を開けると彼女を引き込んでまた厳重に扉を閉めた。玄関で二人は抱き合い、キスをしてから互いの顔を見詰める。
「痩せた?」
 サンドラの問いにレイモンドは笑って誤魔化した。レイモンドはこの夏一杯で学校を辞めていた。今はバイトを掛け持ちしながら、秋から働く場所を探している所だった。正直な所、いつでも楽しく働けている訳ではない。就職面接も幾つか落とされていたし、ストレス痩せだった。
「サンドラこそ。何か具合悪そう」
 心配しながらもレイモンドは内心ほくそ笑んでいた。
「あ、あのね…」
 サンドラは言いにくそうにしながらも、レイモンドの目を見てはっきりと伝えた。
「妊娠したかもしれない」

 サンドラはレイモンドに寄り掛かってぼうっとしていた。脳が考える事を拒否していた。
 二人はあの後、匿名で検査を受けられる病院に行った。結果は陽性だった。
 レイモンドは自分の膝の上の、自分が握るサンドラの手を見詰めていた。夏の熱い陽射しがレイモンドのベッドに高いコントラストを描いていた。
「…ごめん」
 レイモンドは心から謝罪した。彼は結局、自分の事しか考えていなかったのだ。まさかサンドラが子供を持つ事を望んでいないとは思いも寄らなかった。彼女は母として生きるつもりは無く、一生仕事をしていたかったのだ。
 サンドラは首を横に振った。自分の意思を伝えず、拒絶しきれなかった自分にも責任がある。
 レイモンドは彼女は中絶を望むだろうと思っていた。別れを告げられるかもしれないと覚悟していた。だから黙っていた。彼女が話し出すまで決して話し始めるものか。もう自分に彼女のやる事を制限する資格等無い。いや、元からそんな物無いのだ。
 サンドラはレイモンドの呟きで思考を再開した。自分の人生を取るか、レイモンドを取るか…。子供を産めばレイモンドと結婚出来る事は知っていた。
 結局彼女は決定を下さないまま、レイモンドの家を後にした。彼女が居なくなった部屋に独り残されたレイモンドは、二種類の洗剤を持って風呂場に行った。
(俺が死んだらサンドラは迷う事無く子供を下ろせる…)
 レイモンドは片方の洗剤に手をかけた。しかし、蓋を開けないままそれを放り出すと、台所に包丁を取りに行った。
 普段は掃除が簡単な風呂場でしか手首を切らないが、今日は我慢が出来ずに包丁を手にするとその場で皮膚を切り裂いた。何度も何度も浅い傷を付ける。血が良く流れる様に、慎重に深い傷を必要最低限付けるいつものやり方ではなかった。
 数回切り付けた所で彼は包丁を流しに落とすと、床に膝を付いて泣き始めた。
 サンドラに不治の傷を付けてしまった。
 死にたい。死にたい。死にたい。
 しかし彼はサンドラよりも生に執着していたのだった。
 死にたくない。死にたくない。死ぬのは怖い。
 父さん、母さん、貴方達はどうして自分を殺す事が出来たの?

 レイモンドは十月になっても定職に就けなかったが、バイトの掛け持ちである程度の収入は得て生活していた。
 サンドラとはあれきりだった。また音沙汰が途絶えて、彼はサンドラが子供を下ろして、自分の事等忘れてしまおうとしているに違いないと思った。
 手首を切る事も、止めるどころか頻度が多くなっていた。彼は四六時中死ぬ事かサンドラの事を考えていて、辛くなると包丁を持ち出した。手首だけでは傷の治りが追い付かなくなって、最近では脚も切った。
「レイちゃん、病院行こう」
 自身もキャロルとの復縁に躍起になって[やつ]れているアーノルドが、ある時初めてレイモンドの傷に気が付いて言った。彼はサンドラの妊娠を知らない。レイモンドは笑って誤魔化しながら首を横に振った。

 そんなある日、電話が鳴った。
「アレキサンダー君?」
 サンドラの母親だった。何かに怯えた様な口調で手短に用件を伝えてくる。
「夫とサンドラが貴方に話があるの。明日の午後一時に家まで来てくれるかしら」
 レイモンドがテイラーを訪ねると、母親が店の前で待っていた。彼は初めて自宅の方に通され、その古いが決して古びている訳ではない建物に感嘆する。
 しかし美しい建築物に見惚れている暇は無かった。居間ではサンドラと父親、アーノルド、そして彼に似た中年の男性が深刻な顔をして待っていた。
「君がサンドラのお腹の子の父親だね?」
 サンドラの父親が感情を押し殺した声で尋ねた。サンドラが中絶していなかった事、そして父親が自分に殴り掛かってこない事に驚きながらレイモンドは頷く。
「父親になるつもりはあるのか?」
 レイモンドはその問いの真意が掴めずに黙り込んだ。父親は続ける。
「私は君の様な奴に娘をくれてやりたくない」
 見知らぬ男性も同意した。
「だが君に収入があり、サンドラが子供を生んでしまえば私達は君達の結婚を止める手立てが無い。だから今の内にはっきりさせようじゃないか。君は妻と子供を養っていく大人になる覚悟があるのか?」
「あります」
 レイモンドの声は掠れていた。実の所、嘘であった。
「結婚を認めるのか?」
 見知らぬ男性がサンドラの父親に問うた。
「許婚の約束は? アーノルドの立場も…」
「俺にはキャロルが居るっつってんだろ」
 部屋の隅で腕を組んで立っていたアーノルドが自分の父親の発言を遮った。
「親父は恋愛結婚で失敗したかもしれない。小父さん達はお見合いで成功したかもしれない。でも世の中には恋愛結婚で成功した人だっているだろ? あんたらだけの経験談で決めないでくれ。大体、何でそんなに拘るんだよ」
「二人共、お互いが嫌なの?」
 サンドラの母親が尋ねた。
「アーノルドの事は大好きよママ」
 大きくなったお腹を摩りながら、ソファーに座っていたサンドラが言った。この場にいる人間の中で、一番落ち着き払っているのは彼女の様に見えた。
「でもね、結婚とかしたい『好き』じゃないのよ。私はママが好きだけどママと結婚したいとは思わない。それと同じ」
 サンドラが目線を上げ、立ったままのレイモンドを見た。レイモンドも見詰め返す。
「親が居ない辛さは貴方が良く知っているでしょう?」
 レイモンドは視線を彼女の膨らんだお腹に移した。あれが自分の子供だと言う。自分でそうなる様に仕向けた癖に実感がなかなか湧かない。
「この子のパパになってほしいの」
 サンドラの言葉に、レイモンドはサンドラの父親を振り返った。
「俺はサンドラを愛しています。サンドラが望む事で俺が出来る事ならやってあげたい。それに…」
 レイモンドの言葉を遮ったのは、アーノルドの父親だった。
「許婚の約束は破棄するよ」
 そして息子を見る。
「好きにしなさい。後悔しても知らないがな」
 彼はサンドラの両親に一礼するとその場を去った。アーノルドもこうしちゃ居られないとその後を追う様に出て行く。
 残された父親は溜息を吐いた。
「アーノルド君に店を継いでもらいたかったんだが…」
 そして傷だらけの少年を見る。
「また私の見えない所で娘に何かされるのは嫌だからな。私の店で働きなさい」

「あの後何て言おうとしたの?」
 二人はレイモンドの十七歳の誕生日に入籍した。レイモンドはサンドラの家に引っ越し、アパートを引き払った。サンドラの父親から仕事を教えてもらいながらテイラーの店で働き始めたが、彼はまだ義父の事を父とは呼べないでいた。義父の方も強引に娘を犯した馬の骨を婿とは認めていなかった。
「あの後って?」
 夫婦の寝室のベッドで寄り添い横たわり、レイモンドはパジャマの袖を捲り上げて左手首を眺めていた。同居し始めてからリストカットが出来ないが、している余裕も無かった。サンドラの臨月も近いし、彼女の分まで働かなくてはならない。
「『サンドラが望む事で俺が出来る事ならやってあげたい』の続きー」
「ああ、あれか」
 レイモンドは言おうかどうか逡巡して止めた。左手をサンドラの腹の上に置き、中に居る我が子を想う。
「内緒ー」
「えー」
 レイモンドの両親は彼に何も遺してくれなかった。だから自分は、自分の子供に何かしてやりたい。
 早く生まれてきて欲しかった。そうしたら、自分が貰えなかった分の愛情まで、この子に注いであげられるのに。

 しかしレイモンドは再び地獄に突き落とされる事になった。
(天罰だ…)
 予定日よりも少し早かった出産の後、三日もこの世に留まる事が無かった天使の体を燃やして天に還しながら、レイモンドは自分を責めていた。
(俺が生を利用したからだ)
 天は彼に死を以て罰を与えた。それも彼の命を奪う訳ではなく、より彼が苦しむ様に、彼の一番大切な者を悲しませ、二番目に大切な者を彼の手から永遠に奪い去った。
 レイモンド達はその子にアレキサンドラ・ブランチと名付け、テイラー一族の墓に葬った。その子の墓の前で泣き嘆く妻の肩を抱きながら、レイモンドは娘の死よりも更に悔しくて哀しい事を考えていた。
(結局俺はこの子に名前しか与えてやれなかった…)
 墓石に掘られた文字を眺めて溜息を吐く。
(俺の両親と同じ事しか出来なかった…)
 テイラー家は暗い空気に包まれた。レイモンドは妻が日に日に神経質になっていくのを感じていた。子供は要らないという立場であったサンドラでも、授かった我が子を愛していない訳ではなかったのだ。
 レイモンドは今度こそ破綻するかもしれないと思った。サンドラに別れを告げられるか、義父に追い出されるか…。しかしどちらもそのような事はしなかった。

 ある日の夜、サンドラが言った。
「死にたい」
 レイモンドは急に恐ろしくなって彼女の腕を掴んだ。風呂場で死の誘惑に乗ろうとしていた自分を見た時のサンドラもこんなに怖かっただろうか。
「駄目だ」
 レイモンドが必死で訴えると、彼女は先程の言葉は取り消した。代わりにこう言いながら。
「もう子供は産みたくない」
 レイモンドは子供が欲しかった。自分が受けられなかった分、ブランチにしてやれなかった分の事を、与えてやる誰かを必要としていた。子供に何か残してやる事が生きた証であり、彼の目標と化していた。
 だがまたサンドラ悲しませる事等、レイモンドには到底出来なかった。その日、彼は夜に家を抜け出すと、公園の水道の横で手首を切った。